ラ・カンパニュラ

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2011.10.07 Friday

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2008.10.20 Monday

父の背中〜鞍馬編

 本当は実家から古いアルバムの写真を探してアップしたいところなのだが、それも出来ないし
最近の写真は整理していないので、画像は後にアップすることに(気が向いたら・笑)


私の養父母はお米屋さんを営んでいた。
日曜日と祝・祭日以外は毎日、朝8時から夜8時まで働いていた。
GWなど関係なし。

年末も31日まで注文の餅の配達に明け暮れていたので、クリスマスなんて世間が家族そろって
ケーキを囲むなんて経験など無かった。

忙しくよく働く養父母からはなかなか相手にされなかったし、長期連休などとったことが無かったので
ゆっくりのんびりの家族旅行も無かった。

それでも忘れなれない想い出は、京都の鞍馬と岐阜のひるがの・高山・白川。

その想い出の鞍馬から・・・

鞍馬には源義経が天狗に兵法を学んだと云われる鞍馬寺がある。
商売繁盛・勝負事に霊験あらたかな寺とされて、参拝客が後を絶たない。

その鞍馬寺に、養父母・兄二人・私と家族5人で毎年参拝に行っていた。
この年中行事は、私が小学校に上がる前から中学1年まで続いたと記憶している。


私が小学校に上がる前といえば、、、かれこれ36・7年前のこと(笑)
このころの日本は、まだ週休二日制度など導入されておらず、土曜日は半ドン(午後休み)が
周流だった時代である。
現在では盛んな外食産業もコンビニもない時代のこと。
写真やテレビと同じ、古き良き、不自由ながらも豊かなモノクロの時代・・・。

我が家は土曜日でさえ平日と同じように働き(これは去年まで続いた)、鞍馬山詣でとなると、

仕事を夜8時に終えて食事を済まし、入浴を終えるのが午後9時半くらい。
ここまではいつもと同じ。
わたしは寝床につき、真夜中の2時に起こされる。
出発の時間。

養父母はそれまでどうしていたのだろう?
京都までの車の運転のため、養父は毎晩欠かさない晩酌を我慢して仮眠したのだろうか?
養母はお弁当を作っていたのだろうか?

大人になって思い返すと、養父母の常に真面目に懸命に生きていた姿を想い出し胸が熱くなる。

「鞍馬山(くらまさん)に行くよ、起きないと置いて行っちゃうよ〜」

そう言われて飛び起きる。
私のとって「くらまさん」は霊験あらたかな山であるとか寺であることなど理解できるはずもなく、
ただただ大好きな養父母と出かけられる、そう分かった瞬間に喜びは頂点に達していたのだから。

着替えさせてもらい、お弁当を持って車に乗り込む。
私はいっぱしの家族の一員のつもりでいるのだけれども、やっぱり保育園児。
何をするにしても危なっかしいらしく、歳の離れた二人の兄にからかわれ、なだめられ、
ぐずぐずと泣いたりと出発前に必ず一悶着があり、仕事に疲れ、無理している養父母は
閉口したことだろう。
(それでも手を上げられたことは一度も無かったので、本当に素晴らしい両親だったと思います。)

自宅を出発。
毎年毎年、「今年こそは鞍馬山に着くまで寝ないぞ」と思うのだが、走り始めて20分ほどで辿りつく
名神高速のIC。
オレンジ色の走行灯を見てはしゃぎまくってそのままzzz。

起きたらいつの間にか鞍馬山に着いてた。

鞍馬山参拝について具体的な事はまた折を見て語るとして、、、。


鞍馬に到着するのはだいたい午前5時〜6時前後。
山門をくぐって、、、歩き、、、主殿を詣でて休憩して、、、また歩き、、、途中の資料館で休憩して、、、また歩き、、、
木の根道を横目で見ながら、、、もくもくと歩き、、、奥の院まで。
そこで大休止。
遅めの朝食というか早めの昼食をとり、また来た道を戻る。

電車で来ていればそのまま貴船方面に向かうのもいいが、山門前の駐車場に車を停めているのでそうもいかない。

再び歩いて山門へ。
この時点で午後1時〜2時頃だったと思う。
そして帰るのだけれども、養父は必ず帰路は比叡山方面をとっていた。
延暦寺に寄って参拝しながら、途中にあるロープウェイに乗せてくれたり遊園地に寄ってくれたり。
私のための時間も作ってくれていました。。。
夕食は「お子様ランチ」のあるレストラン。普段相手に出来ない娘へのサービスのつもり(涙)。

帰宅は午後9時を過ぎていたと思います。
翌日の月曜日〜土曜日まで、また長い仕事の始まり。

昔の人はタフだったというかナンというか。。。
脱帽ですよ。。。

Paul Mauriat - Mamy Blue (1971)




父の想い出を語った後でMAMYかよっ?!って感じですが(笑)。
この曲は当時流行っていたのか、家族小旅行の車中で何度も何度も流れていました。

兄が集めたレコードコレクションの中にもありましたので、運転する父の隣に座っていた兄が
ラジオを触りまくって、好きな歌をセレクトしていたのでしょう。

養父は普段から、チャンネルを次々に変える行為を嫌がっていましたが、
兄がこの曲を探すのは嫌がりませんでした。

疲れ果てて怒る気力も無かったのか、帰宅するまでは子供へのサービスに徹していたのか、
さては後ろで眠る女房への想いだったのか、、、聴いてみたかったなぁ。。。






2011.10.07 Friday

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コメント

鞍馬、行ってみたいな〜!
今年の春に我が家三世代で京都へ出かけた折、
私の母親が鞍馬に一度行ってみたいと強く主張しましたが、
我が愚息の千本稲荷を見たいとの意見に負けてしまいました。
今思えばおふくろの意見を優先するべきだったかも?
とちょっと反省してしまいます。
2008/10/24 1:15 AM by tk
>tk様

ご来場誠にありがとうございます(笑)。

30年も昔の鞍馬は、それはそれは近寄り難いくらい荘厳でありました。
それはただ単に、私が幼いがゆえの独特な感覚だったのかもしれませんんが、
現在の鞍馬は、思いっきり観光地です。。。(涙)

それでも私には思い出に地でもありパワースポットでもありますので、
モノクロが似合っていた当時の様をそのまま紹介したいのですが、
様変わり甚だしいといいますか、、、。

愚息などとおっしゃいますな(笑)。
母上もお孫さんの意見になど対抗しないでしょうし。

でも、足腰丈夫なお元気な内に連れて行って差し上げないと、鞍馬の道はちと辛いかもしれませんね。

鞍馬登山でなくとも、何時の間に掘り当てたんだ?ってくらい驚きの鞍馬温泉もありますし、
親孝行スポットでもありますよ。

次回は是非☆
2008/10/24 3:47 AM by 鯱美
あわびさま。あ、鯱美さま。このブログではどうお呼びすればいいのでしょうか?
なんか、としのせいでしょうかね〜。
すぐ泣くんですよ。前から泣き虫ではあったんですが。
なんかこの文章を拝見してて、うるうるきてしまいました。
家族の愛情は何ものにもかえられないものです。
私事になりますが、実は私の娘は私の妹の子供です。
訳あって3つの頃から私が育てることになりました。
どんなにがんばっても本当の母親にはなれないけれども、それならそれで、子供の一番の応援団長になろうと思ってから気持ちがスーと楽になりました。開き直りです(笑)

一生懸命に働き、愛情をいっぱいくれたご両親の気持ちが、
今になって心に響きますね・・・。
いいお話ありがとうございました。
2008/10/24 5:20 PM by 14番目の月
そっか〜。逆ですね(笑)私は秋と冬が好きです。

しめくくってない出来事。

どこをしめくくりのするかがもんだいですが・・・。
苦しかった事。
辛かった事。
忘れられない事。
ぜーんぶ自分の大切なものです。
そんなに簡単に忘れられるもんじゃありません。

ただ・・・
できれば、時が経過した分、
その当時とは違った少しでもいい形で、
自分のなかに刻めたらいいとは思います。
心の肥やしにして、
もっともっときれいなひまわりを、
真夏のぎらぎらの太陽の下、咲かせてくださいよ〜!

ちなみに私は、
グレーの曇りの日や、
しとしと雨降りの日が好きです。
気持ちが落ち着くんですよね。
しょせんかわりもんです。ハイ・・・。
2008/10/24 6:06 PM by 14番目の月
>14番目の月様

お、お、お越し下さってありがとうございますっ!(抱きっ!抱きっ!)

呼び名など、アワビでもとらよしでもかべっち(?)でもお好きなようにどうぞ☆

私の養母は、実母の姉です。
まさに14番目の月様は、私の養母と同じ立場におられるわけですね。

私が養母(文章として書く時は紛らわしいのでこう記しますが、私の中では養母こそ母です)に対する反抗期は、中学3年〜高校卒業まで。
結構長かったなぁ。。。
色々と悩んでも仕方の無いことを好んで悩んでしまう磁器でしたので、養母との会話はいつも喧嘩腰でした。

14番目の月様の娘さんは高校生とか。。。
反抗期とかはもう過ぎたのでしょうか?
自分が長かっただけに気になってしまいます。

父が亡くなってからの養母は仕事に没頭していました。
今思えば、何かに没頭することで自分を支えていたのかもしれません。
(だって今でも亡くなったダンナに惚れてるし・笑)

しかしその姿が、完全に父を忘れてしまったかの様で私は納得できませんでした。
まったく、まったく親の心を知らないクソガキでした。

でも、私がそんな反抗している時期も、特に養母のことは『帰る場所』だと解っていました。
子供は見てますって!
離れて暮らそうが、血のつながりが無かろうが、一つでも自分のためにしてくれたこと、忘れませんって。

大人にならないと親の有り難味などわかりません。

だからこの歳になった今、こんな思い出など語ってしまいたくなっちゃうのです。

私の仕事の影響で、養母は今や鯱チームのサポーターです。
そして私は、熱心な養母、、、いえ、母ののサポーターです!

もうっ、娘さんのかわりにアタシが謝っておきます!

心配ばーーーーーっかりかけてごめんねっ、いっぱいいっぱいありがとうね!!

2008/10/24 9:30 PM by 鯱美
はじめまして。

孤愁庵人さんの所へ行ったら、門構えが立派になっていたのに、肝心の御本人はしばらく不在とのことだったので、こちらにお邪魔しました。
あの方とは、どうもタイミングが合わないようです。

さて、私も米屋の子どもでした。
両親は健在ですが、長男の私が跡を継がなかったために店は閉めました。
もう10年以上になります。

ウチは店舗兼住宅という完全な個人商店でした。
父は暑い時など、下は作業ズボン、上はダボシャツという格好で汗をかきながら配達に回っていました。
土曜日も祝祭日も仕事で、休みは日曜日だけ。
いや、日曜日も注文の電話があると、文句を言いながら配達していました。

冬は灯油を扱っていたので、鯱美さんの所と同様、年末は大忙しでした。
「ウチは浄土真宗なのに、何がクリスマスよ」と言い切る母に向かってクリスマスケーキが欲しいとはとても言えず、大晦日は紅白歌合戦が始まる頃(私が子どもの頃は夜9時スタートでした)から、店の大掃除を始めていました。
こんな生活だったため、旅行らしい旅行へ連れて行ってもらった覚えはほとんどありません。

就職したての頃の私は、作業服を泥だらけにしてあっちこっち飛び回る仕事をしていましたが、当時、先輩が「大学を出たのに、こういう仕事でガッカリしてるかもしれないけど、これも経験のうちだから」と慰めるつもりで言ってくれたことがありました。
でも、全然ガッカリしてなかった私は、先輩の言葉にキョトンとしていました。
子どもの頃から父の働く姿を見ていて、仕事とはそういうものだと思っていたんですね。

結局、私は自営業を嫌ってサラリーマンになりましたが、今は、親の働く姿を間近に見られる環境だったことに感謝しています。

懐かしい「米屋」という言葉に反応して、まとまりのないことをダラダラと書き連ねてしまい申し訳ありません。
失礼しました。
2008/10/27 12:41 AM by どっちもどっち
どっちもどっち様

はじめまして。
お越しいただいて感激至極です。
私の方からご挨拶しなければと思っていましたのに、すみません、タイミングが悪くて。

我が家もどっちもどっち様とほぼ同じ環境でした。
あの当時は、お米は米屋さんでしか買えなかった時代でしたので、
私の養父も休みの日でも注文が入れば配達に行っていました。はい、同じくぶーぶー文句タレながら(笑)。

私はとにかく養父が大好きで、配達にもついて行きたくて仕方なかったのですが、
父は頑なに「駄目だ!」と許してくれませんでした。

1度だけ幼い私がついて行って、配達先のお客様からお菓子を渡されたことがありました。

養父は、私を連れていくことによって、施しを望んでいるかのように思われてしまう事を相当気にしており。
それ以来養父は配達についてくること許しませんでした。

父の作業着、それはそれは臭かったですよー。
煙草の臭いと汗の臭い。
でも、大好きな臭いでした。

超多忙で構ってもらえなかった為か、私はクリスマスが大嫌いです。
キリスト教とは縁が無いハズの日本人まで浮かれる姿が、ゆっくりケーキを囲むことさえ出来ない忙しく働く人々の神経を逆撫でするようで。

「うちは仏教だから」

米屋の常套句ですね(笑)

2008/10/27 3:07 PM by 鯱美

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