ラ・カンパニュラ

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2011.10.07 Friday

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2008.12.02 Tuesday

お世話になった人々〜上司編vol.1

 社会人である以上、人間関係に悩んだことのない人など居るまい。
もしそんな人がいるなら、陰で「デリカシーに欠ける人」と言われているハズなので、気をつけましょう(笑)。

私はこの20年のうちに職を転々とし、多くのあきれるほど嫌な人にも出会いましたが、頭が上がらない上司にも出会うことが出来ました。
どちらかと言えば、上司には恵まれてきたと思います。

出会った多くの上司のうち、忘れられない方が2人。
どちらも尊敬の念と、父親への思慕のような感慨を思い出させる方です。

1人はこのブログのこちらのエントリーで少し触れた方で、M.Oさんです。
大勢の派遣社員に残業を強いていながら、ただの一度も残業食代を出してくれない会社に代わり
ご自分のポケットマネーで、約20名分の軽食を、ほぼ一ヶ月に渡り買出しに行って下さった方。
普段は滅法厳しくて、一字の誤字脱字にも目を光らせるほど仕事には徹底していらっしゃいました。
けれど、会社内で一番厳しくとも一番思いやりのある方でした。

もう1人が、今日語りたい方。

<オレたちワタシたち グラ応援団>(7) 手嶋雅春さん(元広報部長)

この方は、グランパスの創立間もない頃から広報部長として、グランパスの歴史を見ていらっしゃった方です。
ヘビースモーカーで、大酒飲みで、テツマン&競馬が大好きで、赤ら顔で出社してきたことも度々でした(笑)。

2004年に私がグランパスに派遣された当初は、来る日も来る日も残業でした。
毎晩11時まで残業し、派遣の私が会社の戸締りをして帰る日々。

『前の会社のM.Oさんだったら、派遣に戸締りさせるなんて絶対に許さないのになぁ。。。』

M.Oさんの方針を叩き込まれていたので、グランパスの内情は全く意外というか、人任せの会社だという印象を強く持ちました。
誰が残業してるか、そんなこと上司の誰も気にも留めることもなく、派遣の私が残業を強いられているのに、社員は定時で帰るのですから。

それも、一言の労いの言葉も無く。

そんな残業三昧の中、遅くまで仕事をしてみえたのが手嶋さんでした。

若いモンに任せればいいものを、明日のリリース記事をパチパチとパソコンで打っていらっしゃいました。

自分の仕事を終えて帰ろうとする時に、まだ残っている私を見て、

「まだ終わらんのかぃ?」

そう言葉をかけてくださいました。

「毎日毎日遅いじゃねーか、あんまり無理すんじゃねぇぞ、おい!」

ぶっきらぼうな言葉だけど、ニコニコ笑って言ってくれた言葉に涙が出そうでした。

というのも、私の直属の上司などは

「へぇー、今日も残業すんの、でもオレには関係ねーから帰るわ」

って神経を逆撫でするような捨て台詞をわっざわざ吐いて帰るのだから。

そのうちに仕事帰りに飲みに連れていってくれるようになり、さんざんゴチになった御礼にと、残業中は原稿の校正をしてみたり。
飲兵衛同士の付き合いみたいなのが生まれて(笑)本当に良くしていただきました。

私が手嶋さんを見る時は、亡くなった養父を投影していたように思います。
言葉も素行も悪いけど、本当は優しくて、思いやりがあって。。。

色々あって手嶋さんはグランパスを離れ、関連会社で広報を纏めることになり、、、

そして11月末で、その会社も辞めることになりました。


理由は療養のため。
末期の肺癌なのです。
この事実はご自分も知っておられます。


先日、久しぶりにお会いしたところ、少し痩せた感じ。
なんとなく気だるそう。

聞けば手術の後だとか。

それでも煙草は止められないみたいです。

「身体に悪いですよ、大丈夫ですか?」と心配すれば、
こちらの顔色を心配してニコニコ笑うのです。

「いやあ、十分働いたんだからよ、いいだろ?これからは家でよ、ゆっくりかぁちゃん孝行でもするわぃ」

ニコニコ笑うのです。


この人には、かなわないな、、、何時も気遣っていただいてばかりだったな、、、。
それでますます養父の姿を投影してしまうのです。

死期が迫ったことを知る人に、

『身体に障りますよ。。。』

なんて、陳腐な台詞だろう。。。
もっと気の利いた言葉はないのだろうか。。。

自分が情けなくて嫌になる。




手嶋さんがグランパスを離れ、次に移った職場は、超近代的なオシャレなオフィス。
セキュリティーも厳重で、エントランスには綺麗どころの受付嬢。

たまたま手嶋さんに用事があって会社を訪ね、インタフォンを鳴らせば
手嶋さんが腰にタオル、耳にボールペンを挟んだ姿で現われました!

このギャップが最高(笑)。

手嶋さん大好き大好き!

いかにも競馬場に居そうなオヤジなんだけど、

心根がかっこいい。
優しくってかっこいい。
気遣いばかりでかっこいい。
損してばかりだけどかっこいい。
父親みたいでかっこいい。


手嶋さんのトレードマークは、腰にタオル、耳にボールペンなんだけど、この曲しか浮かばない。
かっこいいこの曲が似合う。




もう間も無く逝ってしまうかもしれない。。。

だから、グランパスの優勝、見せてあげたい。





見て欲しい。。。











2008.11.17 Monday

伯父の死:92歳大往生

14日夕方、伯父が亡くなった。
御歳92歳というから大往生である。

伯父は私の養母の姉の夫にあたる方で、血縁関係はないのだけれど
影日向なく可愛がっていただき、お世話になった方だった。

昨日はその伯父の告別式で、久しぶりに親族が揃った。
9年振りに会う従姉60歳(伯父の娘)は、相変わらず美しくて凛として気丈に振舞っていた。
従姉の息子も娘も30を過ぎ、立派な大人に成長し目を見張った。

伯父の経歴を少々。

伯父は田舎の超エリートで、3代も天皇家を警護の近衛兵として仕えた。
戦後は某大手保険会社の支部長として、各地を転々とし、全国一位となった業績を評価されて
表彰されたこともある。

伯父の故郷の田舎町が、とある市に吸収合併される際に、時の町長に

『新しい時代とこの町を讃える詩を創って欲しい』

と請われて、詩を吟じたそうです。
故郷の山河を美しく詠み、今でもその詩は吟じられている。

引退後は、地方の復興とボランティア活動に身を投じた。
某大手自動車メーカーが工場を構える田舎の道路があまりにも味気なく感じて、
本社と各工場脇に見事な桜並木を整備したのも伯父だという。

これは告別式の弔辞で初めて知ったこと。

まったく自分を誇ることもなく、威張るでもなかった伯父らしい。


私の養父母が自営業を営んでいたため、私は小学校に上がるまでは、養父母の仕事が終わるまで、よく伯父の家で過ごした。
保育園のお迎えは従姉(当時23歳)。
彼女は当時結婚間近で、休日になれば旦那様になる彼氏と出かけていたけれども
必ず私を伴ってくれていた。
当時の彼(今はすっかりオヤジ・笑)にしてみれば、とんだ邪魔者だったことだろう(笑)。

伯父は大きな人だった。
暖かくて朗らかで、何事にも感謝する人だった。
その知識たるや湧き水のようで、もっと地元の歴史を聞いておけばよかったと悔やまれるくらい。

そんな伯父が20年ほど前に胃癌で大手術をし、生命が危ぶまれたけれども生還し
安心したのも束の間、また大きな手術をした。
そして徐々に弱っていき、妻に先立たれ息子に先立たれ、憔悴のあまり痴呆が顕著になってきた。

それでも、伯父は家族に愛されていた。
従姉が介護し、孫が寄り添い、大事に大事にされていた。
いや、ずっと敬われていたのであろう。

喪主の従姉が告別式の挨拶で語ったことが、非常に印象に残った。

『父は暖かい人でした。知識が豊富な人でした。人にも、物にも、出来事にも感謝出来る人でした。
 歌が大好きな人でした。人が大好きな人でした。』

まさにその通りの伯父だった。

挨拶をした従姉がまた、スーパーウーマンで、この10年の間に、伯母(母親)、従兄(兄)、伯父(父親)の3人を同時に介護していたこともあるのだ。

一切の不平も文句も言わず、3人に尽くしている姿は『この優しさと強さと気力の源は何なんだろう』と
不思議に思ったくらい。

源は伯父から教わった感謝の心だったのかもしれない。


92歳の伯父の告別式は、涙が無かった。
従姉もそのご主人も、息子も娘にも涙は無かった。
皆、『よく生きてくれました、ありがとう』その言葉に尽きるのか
穏やかに故人を送っていました。

棺に花を添えるにも、供物を添えるにも、「行ってらっしゃい、またね」くらいの気持ち、、、なのだ。

そんなに大事にされる人って、なかなか居ない。
改めて徳が深く大きい人なのだと、告別式なのだけども感動した次第。



知床旅情 : 加藤登紀子



これは伯父が愛した曲。
何度も何度も伯父の口から聴いた曲。

近衛として戦争に赴いたこともある伯父は、何人もの逝く人を見てきた。
昨日一緒に笑った同胞が、まだ幼い顔をした後輩が。

伯父自身も右手首に銃弾を受け、右手は後まで動かなかった。

辛い時代の犠牲者を弔うために歌っていたのかもしれない。。。

もうひとつ、伯父が好きだった曲は、舟木一夫さんの学園広場。

亡くなる2・3日前、酸素マスクを装着されても、大きな声で学園広場を歌っていたそうである(笑)。
伯父らしい!

惜しまれつつも、穏やかな気持ちで送られる死。

すごいなぁ。。。

私は、最後の最後で、従姉の顔を見たら涙が出て、伯父の想い出が溢れてきて大泣きするところだった。

そしたら従姉が、

『んまー、アンタ泣き上戸だったのぉ~?泣いたらイカンよぉ~』

と言って穏やかに笑うのだ。
ひそかに涙をぬぐっていたのは知ってるけど、笑うのだ。。。

スゴイ人だな、、、かっこいい人だな、、、って思って。

こんな女性を育てた人が伯父だったんだな、、、って思って。

お世話になった人が亡くなるのは悲しいことだけど、なんて穏やかなんだろう。
かっこいい生き方したいなぁ。。。


伯父様へ、多謝(合掌)
















2008.10.29 Wednesday

エルトゥールル号遭難事件

 今日は少しばかり気分がささくれ立っていて、一生懸命いい話はないかと思い出していました。

見つかりました。

ご存知の方もおられるでしょうけど、是非ご覧ください。
いいお話で、アタシなんざ見る度に泣いてしまうのだ。

友好国トルコ



最後のテロップが特に粋でかっこいいのだ。

本日10月29日、トルコ共和国記念日。


なんかこんな日に思い出せて嬉しい。ちょっと感動。

2008.10.20 Monday

父の背中〜鞍馬編

 本当は実家から古いアルバムの写真を探してアップしたいところなのだが、それも出来ないし
最近の写真は整理していないので、画像は後にアップすることに(気が向いたら・笑)


私の養父母はお米屋さんを営んでいた。
日曜日と祝・祭日以外は毎日、朝8時から夜8時まで働いていた。
GWなど関係なし。

年末も31日まで注文の餅の配達に明け暮れていたので、クリスマスなんて世間が家族そろって
ケーキを囲むなんて経験など無かった。

忙しくよく働く養父母からはなかなか相手にされなかったし、長期連休などとったことが無かったので
ゆっくりのんびりの家族旅行も無かった。

それでも忘れなれない想い出は、京都の鞍馬と岐阜のひるがの・高山・白川。

その想い出の鞍馬から・・・

鞍馬には源義経が天狗に兵法を学んだと云われる鞍馬寺がある。
商売繁盛・勝負事に霊験あらたかな寺とされて、参拝客が後を絶たない。

その鞍馬寺に、養父母・兄二人・私と家族5人で毎年参拝に行っていた。
この年中行事は、私が小学校に上がる前から中学1年まで続いたと記憶している。


私が小学校に上がる前といえば、、、かれこれ36・7年前のこと(笑)
このころの日本は、まだ週休二日制度など導入されておらず、土曜日は半ドン(午後休み)が
周流だった時代である。
現在では盛んな外食産業もコンビニもない時代のこと。
写真やテレビと同じ、古き良き、不自由ながらも豊かなモノクロの時代・・・。

我が家は土曜日でさえ平日と同じように働き(これは去年まで続いた)、鞍馬山詣でとなると、

仕事を夜8時に終えて食事を済まし、入浴を終えるのが午後9時半くらい。
ここまではいつもと同じ。
わたしは寝床につき、真夜中の2時に起こされる。
出発の時間。

養父母はそれまでどうしていたのだろう?
京都までの車の運転のため、養父は毎晩欠かさない晩酌を我慢して仮眠したのだろうか?
養母はお弁当を作っていたのだろうか?

大人になって思い返すと、養父母の常に真面目に懸命に生きていた姿を想い出し胸が熱くなる。

「鞍馬山(くらまさん)に行くよ、起きないと置いて行っちゃうよ〜」

そう言われて飛び起きる。
私のとって「くらまさん」は霊験あらたかな山であるとか寺であることなど理解できるはずもなく、
ただただ大好きな養父母と出かけられる、そう分かった瞬間に喜びは頂点に達していたのだから。

着替えさせてもらい、お弁当を持って車に乗り込む。
私はいっぱしの家族の一員のつもりでいるのだけれども、やっぱり保育園児。
何をするにしても危なっかしいらしく、歳の離れた二人の兄にからかわれ、なだめられ、
ぐずぐずと泣いたりと出発前に必ず一悶着があり、仕事に疲れ、無理している養父母は
閉口したことだろう。
(それでも手を上げられたことは一度も無かったので、本当に素晴らしい両親だったと思います。)

自宅を出発。
毎年毎年、「今年こそは鞍馬山に着くまで寝ないぞ」と思うのだが、走り始めて20分ほどで辿りつく
名神高速のIC。
オレンジ色の走行灯を見てはしゃぎまくってそのままzzz。

起きたらいつの間にか鞍馬山に着いてた。

鞍馬山参拝について具体的な事はまた折を見て語るとして、、、。


鞍馬に到着するのはだいたい午前5時〜6時前後。
山門をくぐって、、、歩き、、、主殿を詣でて休憩して、、、また歩き、、、途中の資料館で休憩して、、、また歩き、、、
木の根道を横目で見ながら、、、もくもくと歩き、、、奥の院まで。
そこで大休止。
遅めの朝食というか早めの昼食をとり、また来た道を戻る。

電車で来ていればそのまま貴船方面に向かうのもいいが、山門前の駐車場に車を停めているのでそうもいかない。

再び歩いて山門へ。
この時点で午後1時〜2時頃だったと思う。
そして帰るのだけれども、養父は必ず帰路は比叡山方面をとっていた。
延暦寺に寄って参拝しながら、途中にあるロープウェイに乗せてくれたり遊園地に寄ってくれたり。
私のための時間も作ってくれていました。。。
夕食は「お子様ランチ」のあるレストラン。普段相手に出来ない娘へのサービスのつもり(涙)。

帰宅は午後9時を過ぎていたと思います。
翌日の月曜日〜土曜日まで、また長い仕事の始まり。

昔の人はタフだったというかナンというか。。。
脱帽ですよ。。。

Paul Mauriat - Mamy Blue (1971)




父の想い出を語った後でMAMYかよっ?!って感じですが(笑)。
この曲は当時流行っていたのか、家族小旅行の車中で何度も何度も流れていました。

兄が集めたレコードコレクションの中にもありましたので、運転する父の隣に座っていた兄が
ラジオを触りまくって、好きな歌をセレクトしていたのでしょう。

養父は普段から、チャンネルを次々に変える行為を嫌がっていましたが、
兄がこの曲を探すのは嫌がりませんでした。

疲れ果てて怒る気力も無かったのか、帰宅するまでは子供へのサービスに徹していたのか、
さては後ろで眠る女房への想いだったのか、、、聴いてみたかったなぁ。。。






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